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なにをしていて、なにをするのかの、ふたつめ

 前回から間が空いたので、どういうものだったかを書いておきますね。

 このタイトルの記事では、いわゆる“近況報告”と“予告”をします。前者が記事タイトルの「なにをしていて」で、後者が「なにをするのか」です。

 Twitterでのツイートや小説家になろうでの活動報告などを使ってもできることではありますが、ここなら長めの文章を書いても書かなくても分野の偏りなく見てもらえそうなので、試しにここに書いてみようと考えた、というのが事の次第でした。

 というわけで、始めてゆきましょう!

 

 

 


 

 

 

近況報告1:ボイス版「春に生きれば」とCOMITIA参加申込み

 僕のゲーム初作「春に生きれば」にボイスをつけようと思ったのはいつだったでしょうか。COMITIAに参加するというのは去年のGWに一般参加をした時から思っていたことではありましたが、サークル参加をする時には新作を持っていこうと思っていたんですよね。今回は過去作のボイス版という位置づけです。

 ボイスを今まで使ったことがなかったので、制作を始める前はかなり不安でした。実際に、声優さんの募集から音声素材の調整に至るまで、なにもかもが初めてで、調べても調べてもきちんと行き届いているかはなかなか確かめられませんでした。こんなに声優さんのご助力を仰ぐことが許されるのは初心者だからだろうなと思いつつ、ミオン役のこずみっくさんとカノン役のししゃもさんにはたくさん助けていただきました。

 参加申込みだけでは参加は決定せず、抽選があるわけなんですが、こういう自力の届かないような決定を待つというのはまだ慣れませんね。サークル参加経験が増えれば慣れてゆくんでしょうか。

 

 

近況報告2:DAWの導入

 以前から「音を作りたい」と思っていました。音は視覚よりも直接的に人へエネルギーを加えますから、音を物語の伝達要素として自力で使えるようになりたいと思っていたんです。

 春休みの計画のひとつに「DAW導入」を加えることにはほとんどためらいがありませんでした。そもそもは入学と同時に導入するつもりだったんですが、予算の見積もりの甘さと自分のクレジットカードを持っていなかったために購入ができなかったんです。今回はきちんと予算を組み、必要な機材も調べ、あとは目当てのソフト「Studio One 4」の学割の強化期間(去年は3月頭からスタート)が始まるのを待つだけでした。そう、待つだけだったんです。

 ところが、学割の強化期間が始まったのは去年よりも一週間ほど遅かったんです。これには本当に困りました。ソフトを購入してから機材を揃えようと思っていたからです。期間の開始と同時に購入したものの、予定よりも遅れての導入となりました。

 今は機材を揃え、少しずつ触り始めているところです。今年度中には一曲きちんと作りたいです

 

 

近況報告3:「鉄鎖の迷い姫」の短評

 先日、「鉄鎖の迷い姫」の短評が送られてきました。宛名の字を間違えられたのはさておいて(もしかしたら僕宛じゃなかったのかもしれません)、そこに書かれていた箇条書きの短評三つはいずれも僕の不足を挙げていました。

 ここであえて「挙げていました」と尊敬表現にしないのは、その三つの短評のうち二つは的を外している、あるいは的に届いてすらいないものだったからです。端的に言えば、その二つを書いた誰かは、少なくとも読めはするはずの物語を読めていませんでした。読めないものを出していないことは残りの一つから確かめられていたので、これに関してはほぼ揺るぎないことです。書いていることの違いから、短評は複数人、おそらく三人の手で書かれたものであると推定できました。

 

 おそらくは浪人生になってからのことなのですが、僕は難しい言葉を使わずに物語を書くように心がけています。「言葉の難しさで物語を隠したくはない」「努力をまったく必要としないのは無理でも、努力を積めば必ず読むことが叶う物語でありたい」と思うようになったからです。

 ただ、同時に僕は「読者が物語を読み解く深さや速さが過ぎることを拒みたい」とも思うようになりました。端的に書けば「物語と読者とを同じ位置に保ちたい」ということです。物語の未来に思考を伸ばすこと自体ではなく、そうやって到った未来像を今の物語の延長にあるとすることを拒みたい。主人公が今まさに見ている、見えている世界の解像度こそがその物語の今の解像度であって、物語の世界にたしかに存在するその他のあらゆる物事は、今に限ればまだ物語ではない。そう思うからこそ、いわゆる「先読み」を拒みたいと思うようになったんです。「同じ位置に保つ」ために物語を変化させるのではなく、読者を留まらせたい。こんな願望を見聞きすれば怒りを覚える人が少なくないことは理解していますが、少なくとも今の僕はそう願っています。

 けれど、現代において、物語に触れようとする人はそのほとんどが今の物語の領域に留まっていられません。そして、その対抗策として僕が選んだのは、読むことに対価を求めるというものでした。これこそが、まともな視点では僕の最大の過ちであり、一般から逃れたがる僕でさえも、過ちであると思うことを完全にはやめられないものなんです。

 

 ここでの「対価」が指すものはいくつかありますが、特に挙げたいのが「記憶」と「解読」です。

 読者が物語を読もうとする時に、まず現れるのは文字であり、そこから言葉、文章へと到ってようやく開始地点に立つことになるというのはほとんど反論の出ない主張であるはずです。そして、僕はそこからひとつ上の水準として「記憶」を、さらにひとつ上の水準として「解読」を、それぞれ置いてほしいと考えています。

 

 「記憶」の段階に到らない人はほとんどいないはずですが、その厚みをじゅうぶんに取ることのできる人は限られます。なぜなら、たとえ純粋な能力としての記憶力がじゅうぶんにあるとしても(僕はほぼすべての人がじゅうぶんな記憶力を有していると考えます)、ほとんどの人にとってその能力を用いることは無意識の中に留まってくれなくなるからです。

 特に文字で表現された物語に触れる時に、僕たちは読むことを求められます。そして、僕たちは特に意識せずとも読むことができます。そう思えることはなにも奇妙なことではありません。僕たちは成長に伴って読めるようになれるんですから。そう、読むという行為自体に意識は必要にならない。読む前や読んだ後には読むことに対して意識が及ぶでしょうが、読むという行為をしている最中に読むことを意識することはない。もしも意識したのだとしたら……もしかするともうお気づきかもしれませんね。そうでなくとも、もう書きます。

 僕たちには「物語を読むことに対する意識が存在する時、もはや物語を読んではいない」という考えがいつの間にか存在しているんじゃないでしょうか。そこから、「物語を読む時になにか意識が作用していることを自覚できたのなら、実のところ物語を読めてはいなかったということだ」というところまで考えを広げてしまうということが起こる。その要因は「集中して読みなさい」「集中できていないんだから読めるわけないよ」という圧力だと僕は考えています。たしかにそうです。だからこそ、誰もが通り、誰もが圧力を受け、誰もが同様になる。頑なになるんでしょう。

 さあ、「記憶」に話を戻しましょう。こと物語を読んでいる時には、ほとんどの人が記憶力をじゅうぶんに用いることができません。なぜなら、先述のとおり、記憶力を用いることはいつか必ず意識に現れるからです。それが意識に現れれば、「読めない」と思い、用いるのをやめるからです。物語を読む時において、僕たちは記憶力の要請に耐えられないようにならざるをえなかった。それでも、僕は意識に現れるくらいに物語を読者に記憶してもらいたい。真の理想は読者の意識に現れない限界の記憶要請を僕が保つことですが、そこへ到るまでに通るのは、無意識下の記憶ではなく意識上の記憶を要請する道でありたい。もしも理想への道の半ばで立ち止まっても、その時に僕は意識上の記憶を要請した愚者の姿でありたい。「無意識のうちに記憶が残した要素」だけで物語を理解しようと試みること。あるいは、理解したと考えて物語を語りだすこと。そのいずれも僕はしたくもされたくもありません。

 

 読者が記憶の要請に応じた先に、僕は「解読」を置きます。努めて記憶をしなかった読者に、僕は解読を求めません。拒みます。端から不可能だからです。それを可能であると主張して実際に可能であった試しは、今のところありません。この考えが僕の中で変わるのは、僕がそういう人と出会う時に限られると思っています。

 解読に際して呼び出される記憶の量と解像度に厳密に応じて物語が理解の領域を拡張する。それが、今の僕の目指す文体です。「思い出したのに、考えたのに、理解ができない」という状況を極限まで消去したい。「覚えていれば、思い出せば、考えれば、必ずわかる」という文体に物語をかたどらせたい。そんな物語であれたなら、努めた先の無力は存在しない。物語の世界と理解の領域がぴったり同じになれる、その快さが果てに必ずあるという期待を裏切らない。ただし、努めない読者には努めないだけの領域しか理解をさせたくない

 こんなわがままな願望を叶えるために今の僕が出せる答えは、努めない読者の理解を努めないだけの領域に限るために「多数の曖昧で迂遠な表現の中に、直接的な表現を絞って使うこと」、思考を果たすことを不可能にしないために「難しい言葉を使わず、造語は漢字から容易に意味をつかめるようにすること」、この二つです。前者とその後の解読過程によって、読者に要請する記憶も思考の深度も増大することになります。だからこそ、「記憶」を前段階に置いたんです。

 

 僕はそれなりの割合で「読みやすい・わかりやすい文章」という感想をいただきます。それはきっと「言葉の意味の理解で抵抗をかけない」という意図を果たせているということなんでしょう。また、それなりの割合で「読むのに疲れる・遠回しな文章」という感想もいただきます。それはきっと「解読への無理」を読者側に求めている状態にあるということなんでしょう。

 読むという行為を分割して捉えて到ったのは、より素直に読者の読む努力に応える物語にしてゆく道への合流点でした。ただ、合流してからの道程はその道に重なり続けることができずにいます。それでも、僕は読もうとしてくださる読者のための物語を書きたい読めなくなった読者ではなく、読もうとしない読者を、読もうとしなくなった読者を、僕は拒みます

 今回の応募で、文学者であっても読んだ気になっただけだと気づかない人はいるということを教えられました。そのことと、ひとつだけ読み果たして書かれたであろう短評とだけが、今後に活かすことのできるものとなるでしょう。

 小説を書く時に、僕は「誰もが読めるはずの物語」を書きます。しばらくはこの姿勢が変わることはないでしょう。ここに書いたことは、解読の精度によって理解が大きく異なるようにしたつもりです。

 面倒ですか? そうです、僕はこのくらいは面倒な人間なんですよ。

 

 

 


 

 

 

予告1:「誰よりも軽やかな風」の連載再開

 これは次第に詐欺っぽくなってきているという危機意識だけはあるんです。だからこそ自分を強烈に追い込むことに決めました。

 僕はここに、「連載を二〇一九年五月一日に再開すること」「投稿は二週間毎に一話とすること」「第2章が完結するまで休止をしないこと」を誓います。今やまったく読まれていないと書いても過剰ではありませんが、それでも僕の書きたい物語だったんです。そんな「書きたい」という気持ちを必ず蘇らせてやります。

 

 

予告2:COMITIA128への参加

 五月一二日に開催されるCOMITIA128の抽選に当たりました。個人サークル「Snow Ground」として参加します。

 会場は東京ビッグサイト青梅展示棟。スペースは「H05a」です。Aホール側ですよ。

 ボイス版「春に生きれば」を、今日買ったプリンタと前のPCのディスクドライブで手焼きをして持ち込みます。いくつ持ち込むかやいくらで販売するか等はまだ悩んでいます。今のところはそれぞれ10~20枚、500~1000円で考えています。

 

 

予告3:Light.vnユーザーWikiの中規模編集

 前回に予告した画像の追加はできていませんが、Ver7系への更新は少しずつ進めています。ただ、Ver7系は個人的にやや扱いづらかいと感じているので、特に入門ページの更新が滞っているのが現状です。Luaの単独ページも追加できていません。やることがたくさんだぁ……

 やっぱりひとりでは限界があるんですかね。特にLuaは少し勉強をしましたが、Wikiとして説明を書くのはやはりその畑の人のほうがいいのではないかと思ってしまうことがありまして……

 まずは自分にできると思われることをしましょうか。

 

 

 


 

 

 

 まさか「数ヶ月に一度くらい」が五ヶ月間隔になるとは予想していませんでした。なんてこったい。

 今回のところはこの辺りで、ヴラヂヴァストーク!