コミティア124で出会った作品たちのプレイ記録というか報告というか感想というかなんというかの「同人ゲームプレイ記録」は第10回へと参ります。ようやくリスタートを決めた感じです。春休みに感謝ですね。
各作品の記事においては基本的に作品内の画像やスクリーンショット等を出しませんが、文章にはいくらかのネタバレ要素を含む場合があります。ご注意ください。
というわけで、今回の作品は、「孤独ノユリカゴ」(SILK P.O.D)です! 実はこの作品の体験版をプレイした時に完全版をプレイするかどうかを迷ったのですが、その理由は下で明かされるでしょう。
感覚の中にはもちろん「不快」「苦痛」もある
この作品の物語面よりも先に触れておきたいのが、不快感を起こさせるような効果音です。
本作では随所でそのような効果音が用いられています。明確に不快や苦痛を感じさせるものなので、本作のプレイ継続には一定水準以上の覚悟が求められるでしょう。体験版をプレイした頃は覚悟が足りておらず、プレイ意欲がなかなか出てきませんでした。実のところ、完全版のプレイも渋っていました。キョンタオ以降、プレイ間隔が1年以上空いたのはここに一因があります。なにせ本当に不快でしたし、今でも不快じゃなくなったわけではまったくありません。
けれども、はっきり書きましょう。本作を僕は好きになりました。なぜなら、そういった感覚が物語の現実の感覚への接近だと捉えたからです。
それらの効果音がどこでどのように用いられたか。それに気づいた時、僕は不快も苦痛もその物語の現実、あるいはその疑似だと捉えることで、物語の現実への探究心にそれらを含めてしまうことにしました。物語の現実、その中でも登場人物の感覚へと近づくためのものと考えれば、背きと求めが並び、ついには後者が勝る。そういう過程を経て、僕はこの作品が好きになったのです。
「哲学」を墓場にしないこと
わからない言説に迫られた時、哲学のようだと言う人は少なくありません。いわば言説に対する思考の墓場として、哲学は用いられてしまっています。
思えば国語で「哲学とは」などという単元があった覚えはありませんし、他の教科でもそれは同じでした。知らない物事。その最たるもの。そう扱えと言わんばかりだと感じたのは少し昔の話です。
ただ、究極的には、考えていればいいのではないかとも思います。考えなくなればきちんと「考えの及ばない領域」になってくれる。それでいいんだとも思いますし、そうあってほしいとも思います。
彼と彼女たちの言動や思考が、哲学を墓とする人たちにとってそうすることを決めてしまう領域へと踏み入る時。その瞬間を、「考えている人」は気づかずに、考え続けていることでしょう。僕は、もしかしたらそうあれたのかもしれません。誰かに「考え続けてください」などと求めてしまうのならば、自分が考え続けていなければ。そういう姿勢でいなければ。
「痛い」まではいかずとも、「苦しい」までは現実になったと感じた時の感情は、僕の今後に必ず響き返ってくることでしょう。
この物語を「事故の犠牲者と生存者の物語」とだけ捉えようとしてみても、もはやそれは叶わないほどに、現実となり、記憶となりました。
以上、「孤独ノユリカゴ」のプレイ記録でした。
次回は「Eidola#Holic -夢幻影共依存症- Vol.1 」(DreamerEater)のプレイ記録をお届けします。
ではまた!